午前二時。
ドーナツの穴から風が入ってきた。
ドーナツは、自分の真ん中を風が抜けていくのを感じていた。
向こうが見える。
風も通る。
だから言った。
「そこ、通れるよ」
月はもう穴の前にいた。
「おう」
穴がちょっとだけ大きくなった。
月は穴の向こうを覗いた。
「じゃ、行こうぜ」
「どこへ?」
「向こう」
「何があるの?」
「知らない」
「知らないの?」
「知らないから行くんだろ」
ドーナツは自分の穴を見た。
「これ、ずっとあるよ」
「それはお前から見た話だろ」
「そうなの?」
「俺から見たら今見つけた穴だ。だったら今から行ける」
「どこに?」
「だから向こうだよ」
「向こうも見えてるよ」
月は黙った。
「……いや、そういう向こうじゃない」
「どんな向こう?」
「その先」
ドーナツは穴の向こうを見た。
「ある?」
「それを見に行くんだよ」
「ないかも」
「ないってどうやって分かるんだよ」
「見えてるから」
「見えてないだろ。その先は」
ドーナツは少し考えた。
「その先ってどこ?」
月はもう穴を抜けていた。
その先には、昨日の夜があった。
「ほらな」
ドーナツも穴から覗いた。
昨日の夜?
「あらら」
まあいいか。
しばらくすると、遠くから音がした。
ころ。
ころころ。
白いものが転がってきた。
昨日の夜の中にいるのに、それだけが白かった。
月が言った。
「お前も来たのか」
「うん」
「何しに?」
「知らない」
「またそれか」
「また?」
「いや、こっちの話」
白いものは月を見た。
「月は何しに来たの?」
「俺は穴の先を見に来た」
「見えた?」
「昨日の夜があった」
「よかったね」
「いや、そこで終わったら穴を抜けただけだろ」
「抜けたかったんじゃないの?」
月は一瞬止まった。
「……違うな。俺、穴を抜けたかったんじゃない。穴の先に何があるか知りたかったんだ」
「昨日の夜」
「それはもう分かった」
「じゃあ帰る?」
「なんでだよ。昨日の夜があったってことは、その先もあるかもしれないだろ」
白いものは少し考えた。
「忙しいね」
「何が?」
「先」
白いものはまた転がろうとした。
「待てよ」
止まった。
月は白いものの上に乗った。
白いものは割れなかった。
「重くない?」
「ちょっとだけ」
「ちょっとならいいな」
月は降りなかった。
「よくないって言ったら?」
「降りる」
「降りられるの?」
月は黙った。
白いものは月を乗せたまま、ころ、と動いた。
「じゃあ、こっち来て」
「おう」
ころころ。
「あっち」
ころころ。
「いや、こっち」
ころころ。
白いものは違う方へ曲がった。
「そっちじゃないぞ」
「うん」
「聞いてた?」
「聞いてた」
「じゃあなんでそっち行くんだよ」
「こっちに来たかったから」
月は少し黙った。
「……まあいい。こっちにも何かあるかもしれない」
「便利だね」
「何が?」
「何かあるかもしれない」
「便利とかじゃないだろ」
そのとき。
コツン。
星がひとつ落ちてきた。
白いものの殻に触れて、そのまま中へ入った。
「入った?」
「入ったね」
「どこ?」
「中」
「それは分かってる」
月は白いものの上で尻をずらした。
右から覗く。
見えない。
ずり。
左から覗く。
やっぱり見えない。
「何してるの?」
「見てる」
「見える?」
「見えない」
「じゃあ見てないね」
「見ようとしてるんだよ」
月はまた尻をずらした。
白いものが揺れた。
「動かないでくれる?」
「月が動いてるよ」
「俺はいいんだよ」
「いいんだ」
「見るためだからな」
「見えた?」
「見えない」
月は白い殻に顔を近づけた。
「いる?」
「いるよ」
「見せて」
「見えないよ」
「だから見たいんだよ」
「見えないもの、好きだね」
「いや、好きっていうか……」
月は少し黙った。
「待てよ」
「うん」
「俺、見えないものが好きなんじゃなくて、見えないまま置いとくのが嫌なのかもしれない」
「嫌なの?」
「だって気になるだろ。中に入ったんだぞ?」
「入ったね」
「お前、気にならないの?」
「いるから」
月は白いものを見た。
「それなんだよ」
「なに?」
「お前は『いる』で終われるんだよ。俺は終われない」
「終わらないとどうなるの?」
「見る」
「見えなかったら?」
月は考えた。
「……割る」
「早いね」
「何が?」
「割るまでが」
「見えないんだからしょうがないだろ」
「しょうがないんだ」
「しょうがない」
「じゃあ、割ろう」
月が白いものを見た。
「お前から言われると急に物騒だな」
白いものは笑った。
そのとき、夜空がひっくり返った。
星がぽろぽろ落ちてきた。
ひとつ。
ふたつ。
十個。
もっと。
星は白いものの殻に降って、次々にくっついた。
白いものは星だらけになった。
砂糖菓子みたいになった。
「いっぱい」
白いものが少し転がった。
きらきら。
もう一度転がった。
きらきら。
面白くなって、くるくる転がった。
月も一緒に回った。
「おい、待て」
「きれい?」
「待てって」
「見える?」
「見えるよ」
白いものは止まった。
「じゃあ、これ見てれば?」
「中のが見えない」
「欲張りだね」
「一個しか見てないだろ」
「いっぱいあるよ」
「それは見えてる」
「見えてるのは見ないの?」
「見るよ。でも見えるだろ」
「うん」
「見えるものは、見れば見える」
「うん」
「中のは見ても見えない」
「うん」
「だから気になる」
白いものは少し考えた。
「月、見えないの好きだね」
「だから好きじゃないって」
「嫌い?」
「そういう話でもない」
「じゃあ何?」
月は黙った。
白いものは待った。
「……なんだろうな」
「分かんない?」
「今考えてる」
「見えないね」
月は白いものを見た。
白いものは笑っていた。
「お前、今ちょっと面白がってるだろ」
「うん」
白いものはまた転がり出した。
月を乗せたまま、昨日の夜をころころ進んだ。
坂を下った。
少し速くなった。
「速い」
「うん」
「ゆっくり行けよ。先が見えない」
「見えないよ」
「だから言ってるんだよ」
「気になる?」
「今のは危ない方の見えないだろ」
「見えないのに分かるの?」
「……待て」
月は考えた。
白いものはそのまま転がった。
「いや、分かる。これは分かる。見えないにも種類があるんだよ」
「増えたね」
「何が?」
「見えない」
「増えたんじゃなくて最初からあったんだよ。俺が今気づいただけで」
「じゃあ、まだあるかも」
月は黙った。
「何が?」
「見えないの」
月はしばらく何も言わなかった。
「……あるかもしれないな」
白いものは笑った。
ころころ。
月はまだ考えていた。
「いや、そうなるとさっきの星も……」
白いものは聞いていなかった。
前に穴があった。
大きな穴だった。
白いものは止まった。
月も気づいた。
「穴だ」
月は覗いた。
「深いな」
「見える?」
「見えない」
「深いの?」
「見えないからな」
「便利だね」
「何が」
「見えないの」
「だからそういう話じゃないって」
月は穴を見た。
「でも待てよ。何も見えないってことは、何もない可能性もあるのか」
白いものは月を見た。
「あるね」
「いや。でも何もないなら、何もないことを確かめないと何もないとは言えない」
「うん」
「ということは、結局行くしかない」
「うん」
「……あれ?」
「なに?」
「何もなくても行くのか、俺」
白いものは少し笑った。
「行きたい?」
月は穴を見た。
「行きたい」
「そっか」
白いものは穴を見た。
それから、遠くのドーナツを見た。
ドーナツも白いものを見ていた。
少しして、ドーナツの穴が、ちょっとだけ小さくなった。
白いものは笑った。
「そこ、通れるよ」
月は穴を見た。
「だろ?」
白いものが転がった。
穴が傾いた。
昨日の夜が傾いた。
星が落ちた。
ドーナツも落ちた。
昨日の夜まで落ちた。
ころころ。
ぽろぽろ。
ごろごろ。
全部。
ぽとん。
白いものも落ちた。
月も落ちた。
落ちながら、白いものの殻が割れた。
白が出た。
どんどん出た。
昨日の夜いっぱいに広がった。
真っ白になった。
そして、朝。
白いものは朝になった。
そこに、月もいた。